たゆたふままに

「人生の踏み絵」     遠藤周作

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1966年6月から1986年7月まで、九回の講演を収録した本。1966年というと「沈黙」が出版された年である。

「沈黙」を書くきっかけは、二年半ほど入院生活を送ることになったとき、心の中に、長崎で出合った足指の跡がついた踏絵が浮かび上がってきたそうだ。自分だったら踏むだろうか、踏むだろうか、踏むだろう。自分は弱い人間だから踏むだろう。その時、どんな気持ちで踏むだろう、当時の人はどうだったのだろう、多くの人は弱い人間だから踏み絵を踏み生きてきたのだろう、と考えたそうだ。だが、キリスト教の歴史には、その記録はほとんど残っておらず、なかったことのようになっているので、その人たちの「沈黙」を呼び起こしたかった。そしてそのとき、なぜ神は「沈黙」していたのか、ということもあり「沈黙」というタイトルにしたそうだ。

1979年からは”文学と宗教の谷間から”と題して六回の連続講演が記録されている。いくつかの小説を題材にし、キリスト教の考え方や感覚について読み解いている。さらに自らの宗教観についても語っており、キリスト教は自ら選んだ宗教ではないので愛しきれないが、何とか付き合わねばと思っていると明かす。

弱虫と強虫を考えて来て仙台で出合ったのが、支倉常長(はせくらつねなが)の悲しい顔をした肖像画だったという。支倉常長に自分を託し、考えてきたことの総決算として上梓したのが「侍」であった。さらに、その総決算に揺さぶりをかけたくなり「スキャンダル」を書くことになったという。

なぜ書くかという問いに、遠藤氏はこう答えている。「小説家は人生がわからず、迷うに迷っている人間なので、その謎に少しでも迫りたいと思って書いているのです」

また、アンドレ・ジッドは「芸術はデモーニッシュ(魔的な)な協力なしに成り立たない」と言っているが、これを「抑えつけているもうひとりの自分、隠れている×」であるということが、小説を書いてきて分かってきた。そのことを小説で考えてみたかったのだという。それが「深い河」へとつながるようである。

最後に、ゆっくり考えてもらいたいものが四つある、と投げかけます。自分はなかなか考えられませんが、いま読み返せば歎異抄にも似たようなことが書かれていたような・・・ぼわ~んとした記憶があります。「沈黙」で止まったままなので、「侍」、じっくり読んでみたいと思います。



画像は、昨年日光に行った時のもの、秋の、川面、雨降る日でした




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by yuhu811 | 2018-06-28 16:09 | Comments(0)
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