たゆたふままに

「1945年のクリスマス」     ベアテ・シロタ・ゴードン

-日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝-構成文:平岡磨紀子
a0021110_12482869.jpg

日本国憲法草案に携わったのは25人、そのうち女性6人、大学教授や弁護士・法学博士などで構成されていた。日本の民主化、婦人参政権で民主主義とは何かを示す、政治犯の釈放、秘密警察の廃止、労働組合の奨励、農民の解放、教育の自由化、自由かつ責任ある新聞の育成、再び軍国主義にしないこと、がマッカーサーの日本改造計画であった。それをもとに草案を作成した。ユダヤ人女性のベアテ・シロタ・ゴードンさんは、それに携わった人物のひとりである。自伝ではあるのだが、日本国憲法の成り立ちが生々しく語られている。

ベアテは1945年の12月24日、アメリカから日本にやってきた。そのとき22歳だったが、日本に来るのは初めてではなかった。ベアテの両親はキエフ生まれで、父親はピアニスト、リストの再来といわれたレオ・シロタだった。レオ・シロタは山田耕作の招きで東京音楽学校に赴任しており、家族も一緒に来日し日本で暮らしていたからだ。ベアテは5歳から15歳までを東京の赤坂乃木坂で過ごした。その後ベアテは日本を離れるが、1941年に戦争がはじまると、両親は敵性外国人として軽井沢に追いやられる。軽井沢は第三外国人強制疎開地に指定されていたからだ。ベアテは両親の安否が確認できずに過ごすが、戦争が終わりGHQの求人募集に応募して日本にまた来ることができた。両親の安否を確かめたいという気持ちからだったというが、6か国語をあやつれるということもあり”人権に関する課”に所属した。責任者ロウスト中佐は「我々の仕事は新しい民主主義の日本を建設するために、軍国主義時代に要職についていた人物を追放することなんだ。あなたは女性だから、女性の小さな団体を調べて該当する人を探し出してほしい。」といい、ベアテの最初の仕事が始まる。

ベアテは、軍国主義時代の日本で育ったので心配だったという。日本民族の付和雷同的性格、自分から意見を言わない引っ込み思案的な性格、しかも過激なリーダーに魅力を感じる英雄待望的な一面があり、本当に民主主義は根付くのか?心配だからこそ憲法に、女性や子供の権利を饒舌に書いたのだそうだ。一部は手直しされてしまうが、日本国憲法第24条となる。

1946年2/13、GHQの憲法草案が、吉田茂外務大臣と松本烝治国務大臣へ渡されるが、日本国政府は内容に大変ショックを受ける。2/18、日本国政府側が改正案を提出するが、これをのまないと天皇を戦争責任から守れないと門前払いとなる。その後、両者で様々なやり取りがあり、3/6、日本国政府より草案を発表。3/7、新聞のスクープで”戦争放棄の新憲法草案!”と報道される。1946年11月3日、日本国憲法公布。1947年5月3日、憲法施行、憲法記念日となる。

日本国憲法は押し付けられたものだという考えがあるけれど、大きな犠牲を払ったのち、理想に燃える人々から市井の人々にもたらされた思いがけない宝物なのでは?日本は負けたけど平和で自由な社会になった。平和ボケといわれても、社会も心も平和がいいに決まってる。今の憲法のどこが時代に合わないのだろう?憲法は政府を縛るものなのに、その政府が変えようっていうのはどういうこと?戦争放棄も大切だけれど、基本的人権を奪わないでー、男女平等を奪わないでー、やめてー、と、切に願うこの頃です。

その後ベアテさんは僻地の素晴らしい民族芸能を世界に紹介する橋渡しとなった。2012年12月30日没、89歳でした。

<この憲法が宣明自由・権利・および機会は、国民の絶え間ない警戒によって保持されるものである>




画像は、2015.4.2.埼玉県さいたま市にて、
[PR]
by yuhu811 | 2015-05-13 16:37